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十二章 ―― 十年目の返信



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          十二章




昭和十九年八月××日。その日は、あっけなくやってきた。

ああでもない、こうでもないと、思い煩う僕の気持などお構いもなく、いつもと同じ時間が、いつもと同じ速さで、リズムを刻んだ。靖子とは、六時に祭りの会場で落ち合う約束をした。「それまで、用事がある」と、僕は嘘をついた。とにかく、その瞬間――生と死を分かつわずかな隙間に、全てをかけたかった。そのためには、引き絞った矢のように、その時を待つしかない。

氏神さまの境内には、六時少し前に着いた。参道には、あの日と同じようにいくつかの露店が、店開きの準備を始めていた。もちろん、時が時だけにわずかな軒数しかない。その分、華やぎを懸命に演出しようとする売り子たちの努力が、かえって会場の侘しさを募らせた。店先に並ぶ品々も、「今」とは比べものにならないくらい乏しい。それでも、「贅沢は敵。盆踊りなどもってのほか」とする風潮の中、先祖から変わらず続く盆の行事を、滞りなく行いたいというこの地区の人々の心意気は、伝わってくるものがあった。それに、ここは靖子と初めて出会った場所。あの夜の風景そのままに、香具師のだみ声が飛び交い、アセチレン灯の甘ったるい匂いが、辺りに漂う。あそこの灯篭も、この参道の敷石も、みんな同じだ。ただ一つ違うのは、爆撃を受ける前の本殿が、そこにはまだ、焼失せずにあった。

「一巡りしたんだ」

泣き出したい気持ちで、そう思った。空気を優しく切り裂いて舞っていた靖子の姿が、果てしなく遠くにも、すぐ目と鼻の先にいるみたいにも感じられた。人の思いを閉じ込める残酷な環。靖子が、三十年間廻り続けている時間の環。それを断ち切って、彼女を救い出さなければいけない。身の引き締まる緊張で、少し武者震いがでた。

明るさの残る空に、宵待ちの月がかかっていた。早く出すぎた月は、宵になることを心待ちする。その光は、天に薄紙を貼り付けたみたいで、いかにも頼りなげだ。それは、どこか靖子の身の上にも似ていた。時は容赦なく流れ、人々は、ただそれに翻弄されるばかりだ。宵待ちに生まれてしまった定めを、甘んじて受けなければいけないのか? その無慈悲な流れに、僕は今、くさびを打ち込もうとしている。

(過去を変えるなんて、許されるのだろうか?)

何度も浮かび上がった不安が、再び頭を持ち上げる……いや、あの月だって、時が過ぎれば天頂にこうこうと輝くじゃないか。




「りょうちゃん」

背中をたたかれて我に返ると、そこに浴衣姿の靖子がいた。計画を、気取られてはいけない。僕は、どうにか平静を装った。

「ちょっと、早く来すぎちゃったかな。店もまだこれからだね。杏の甘酢漬けが、あるといいんだけど……」

「あっ、あたしもそれ好き。でも、この頃あんまり見ないな。豆かすの煎餅とか、麦こがしの練り菓子みたいなもんばっかり。なんだか、がっかりしちゃう」

と言いながら、色とりどりの千代紙の束を、手にとって眺めている。

三々五々、人々は集まり始めた。その人ごみの中に、僕は、勝敏の姿を探していた。

「勝ちゃんは、来ないのか?」

「うん。途中まで一緒だったんだけど、清二君にね、ムササビの巣を見に行かないかって誘われたの」

僕は、がっかりした。ひょっとしたら、勝敏も一緒に逃げてくれるかもしれない。そんな淡い期待があった。僕一人では越えられない山も、彼とタッグが組めれば、鬼に金棒。靖子を守りきることはできる。そんな虫のいいことも思っていた。時は、非情だ。靖子と勝敏は、再び会うことのない別々の道を、歩き出している。運命の歯車は、間違いなく動き始めた。

すっかり日は落ちて、盆踊り会場が賑わい出した。いくら侘しいといっても、浴衣姿の老若男女が、やぐらの周りを十重二十重と取り巻き、踊り出す頃になると、華やいだ気分が、辺りにみなぎり始める。僕らは、植え込みとの境界に置かれている縁石に腰を下ろして、その様子を眺めていた。

「何だか、前にもこんなことあったね。夢で見たのかな? 思い出せない」

ほうずきを指でもてあそびながら、靖子が言った。

(あったさ。ずっと先のことだけどね)

そう言いたかったけれど、口に出しては、

「やっちゃんとは、一緒にいろんなことしたからな」

とだけ言った。彼女の中で、未来へ行った記憶が消えかかっていた。

「ほんとね。でも、九月になったら、りょうちゃんは向こうでしょ。つまらなくなるね。新しい家は、もうできたの?」

「ああ。このあいだ行ったときは、周りの塀を作っていた。それで、お終いだって。部屋に入ってみたけど、よその家に来てるみたいで、落ち着かなかった」

「じき慣れるよ。それより、りょうちゃんの家、遊びに行ってもいいかな?」

甘酸っぱいかたまりが胸にこみ上げてきて、思わず叫びそうになった。やっちゃんと過ごしている「今」。勉強の見せ合いっこしたり、ミレーユでチョコレートパフェ食べたり(そうだ、やっちゃんの鼻に、ピエロみたくチョコレート付けてやろう。きっと怒るだろう。笑いながら、怒るだろう)、愛車に二人乗りで、サイクリングしたり……思い描くだけでも心が小さな鈴になり、「チリ、チリ」と震える。鼻がツンとして、涙が出そうになった。いけない。こんな気弱じゃ、時の非情に打ち勝つことなんかできない。

「いいさ。絶対にね」

余り大きな声を出したものだから、彼女は、驚いて僕の顔を覗き込んだ。踊りの輪は更に広がり、人々の熱気が、うず巻きながら夜空へ立ちのぼっていた。

「ねぇ、りょうちゃん。これ、もらってくれる」

 ふいに、靖子が言った。袂から取り出したのは、「十年後の手紙」を熱心に書き込んでいたあの日記帳だった。突然だったので、僕の方はギクリとした。

「もらえないよ。大切なものだろう」

 慌てて断った。受け取ってしまったら、それが靖子との完全な別れになってしまいそうな気がした。

「ううん、りょうちゃんに持っていてもらいたいの。ほら、前にも言ったけど、これからしょちゅうは会えなくなるでしょう。だから、あたしの代わり。りょうちゃんが、白い石をくれたみたいにね」

 そう言うと、今度は懐から小石を取り出して見せた。

「でもさ……」いろいろな理由をつけて拒んでみたけれど、彼女は、「うん」と言わなかった。とうとう、僕は承知しないわけにいかなくなった。

「それじゃあ預かっとくけど、十年後にこの日記いっしょに読もうな。かならず……」

コクリとうなずくと、靖子は透きとおるような顔で笑った。

この後にやってくる阿鼻叫喚を、誰が想像できただろう。何度大声を上げて、ふりかかる危険を皆に伝えたいと思ったかしれない。しかし、「そんなことをしたら、全てがお終いになる」という恐怖心が、僕の口をふさいだ。せめて、靖子だけでも守ることが出来れば……

「りょうちゃん。踊らない?」

 いま気付いたとばかりに、はしゃいだ声で言う。

「ああ。ここで見てるよ。やっちゃん、行って来なよ」

「なんだ、つまらない。踊ればいいのに。わからなかったら、あたし教えてやるよ」

彼女が、可愛らしく目配せしても、手を引っ張って誘っても、僕はその気にならなかった。

(ごめん。今は、それどころじゃないんだ。君をこの時代から救うために、気持ちをじっとひと処に集めておきたい)

自分の度量のなさを恥じながら、心の中でそう詫びた。靖子は、しぶしぶ輪の中へかけて行った。踊りが巡ってくるたび、彼女は手を振って合図をよこした。(大丈夫。君を見失いはしない)それに答えながら、刻々と迫りくる運命の時に、じりじりしていた。




 「その時」の始まりを恐れていながら、「その時」の来襲を、どこかで受け入れていたのかもしれない。とつぜん、夜の闇に甲高い空襲警報のサイレンが鳴り渡ると、「その時」は、約束された斧となり、僕らの頭上に振り下ろされた。祭り会場はクモの子を散らすような騒ぎになった。それまで、華やいだ気分ひとつに包まれていたものが、てんでに千切れ、右往左往している。僕は、混乱する輪の中へ飛び込んだ。とにかく、靖子を見つけなくてはいけない。逃げ惑う人たちに何度か突き飛ばされながら、やぐらの傍まで来てみると、彼女はそこに、何だかポカンとして、突っ立っていた。僕は、その手をわしづかみ、闇雲に走り出した。頭には、あのずい道のことしかなかった。あそこまでたどり着ければ、助かる。無我夢中で走った。「下駄が新しいから、歩きづらい」と言っていたのが、チラっと頭をよぎったけれど、そんなことは、かまっていられない。もし走れなくなったら、僕がおぶえばいい。ところが、彼女は、何も言わずについてくる。「どうしたの? どこへ行くの?」と、問いかけてこないのは、不思議といえば不思議だったけれど、「それでいいんだ」という思いがした。「だから、助かる」という確信もあった。靖子の荒い息遣いが、何よりも、全てを了解している証拠だった。

空襲警報のサイレンは、ますます急を告げ、叫び声や、わめき声がいっしょくたになって、ワァーン、ワァーンと響く。やがて、頭上を圧するように、B29の爆音が近づいてきた。辺りを鉛色一色に塗りつぶす不気味な轟きだった。

(この手さえ離さなければ、やっちゃんと一緒に、「今」へ飛び込める)

淡い月の光の中で、本物とも、影とも見分けがつかない物たちが、現われたり、消えたりした。橋も渡った。草いきれのするあぜ道を、横切った。背後から気持ちの悪い金属音が、立て続けに聞こえた。何かが落下する音。まるで、夜空を引き裂いて登場するデーモン。白い牙がヒュルヒュルとうなり、カッと開いた口の奥から真っ赤な舌がのぞいている――爆弾と焼夷弾だ。もちろん、その音は聞いたことなどなかったけれど、僕には、すぐ分かった。数秒後、腹に響く炸裂音と共に、火柱が上がった。もう一刻の猶予もできない。

気付くと、泣きながら走っていた。涙が頬を横に伝って、飛び散った。いまさらながら、自分の不甲斐なさが腹立たしかった。「泣いたって、何も変わりゃあしない……」口の中で、お茂さんの言葉を呪文のように唱えた。僕らは、希望に向かって走っているんじゃないのか? (二人とも「今」へは辿りつけないかもしれない)そんな不吉な思いは幾度も襲ってきたけれど、それ以上に、靖子といられる喜びが泉の如く心を満たした。

木立のすき間から、用水池が見えた。表面は、油を流したみたいに鈍く光っている。あそこを右に曲がれば、ずい道はすぐそこにある。ここまで来れば、もう九分九厘、時間の壁は越えられると思った。その時、遠くの火柱とは違う不自然な明るさを、近くに感じた。振り返ると、靖子の足元で、小さな炎が燃え上がっている。一瞬、何が起きたか理解できなかった。そんなはずはない。駆け抜けたところに、火の手は上がっていなかった。僕らは、上手く潜り抜けてきたはずだ。それなのに彼女の足元が、燃えている。信じられない光景だった。自在に舌を伸ばす炎は、すでに浴衣の裾まで、燃え広がっていた。僕は動転してしまい、何度も素手で炎をつかまえようとした。

「やっちゃん。燃えてるぞ。消すんだ。早く消すんだ」

それなのに、返事がない。顔は、能面のようで表情がなくなっていた。

(やっちゃん。何かしゃべってくれ。「怖い」でも、「助けて」でもいい。何でそんなに静かなんだ。お願いだ。お願いだから、僕に何かしゃべってください)

じっさい、この炎には尋常でないものがあった。さっきから手で触れているのに、ちっとも熱さを感じない。そのうえ、炎に照らし出された砂利道――それまで、しっかり足の裏を支えていたはずの砂利道が、だんだんと透きとおり始めている。何てこった。点々と散らばる小石も、道端を縁取る青々とした夏草も、薄い上皮だけを残し、中身が無くなっている。靖子の世界が、消えかかっていた。そこから覗き込める砂利道の底は、何度も、何度も黒を塗り重ねたような真っ暗闇が支配していた。まるで足元に広がる奈落。B29 よりもっと恐ろしい敵が、眼前に立ちふさがっていることを知った。それは、彼女をとらえ、向こうの世界に連れ去ろうとしている。負けるものか。靖子を右の腕に抱きかかえた。こうすれば、いかな魔王でも、二人を引き離すことはできまい。やっちゃんと僕は、一心同体だ。ずい道の入り口が、見えてきた。あとひと息でいい。ここさえ抜ければ、彼女の未来が待ち受けている……

しかし、そんな願いをあざ笑うように、靖子を包む炎は、彼女の胸や腕までも焼き尽くしていった。過去は、少しずつ、少しずつ、煙りになって夜空へと消えた。

二人を引き離そうとする非情な力に、僕は懸命に呼びかけた。

「お願いします。やっちゃんをこのまま、僕と一緒に行かせてください。僕の住む今の世界に、行かせてください。僕がそれに値しない人間なら、一生懸命変わりますから。許してもらえるような人間になりますから。どうか、一緒に行かせてください。母さんに、生意気な口答えはしません。朝は、ひとりで起きます。歯も、毎日欠かさず磨きます。許してくれるならば、兄さんたちと、喧嘩もしません。すぐすねて、他人(ひと)のせいにしません。宿題を忘れても、平気でいたりしません。買い食いもしません。嘘もつきません。お願いです。このつないだ手を、引き離さないでください。やっちゃんを、僕の傍にいさせてください。やっちゃんに、未来をください」

炎は益々勢いを強め、靖子の顔の輪郭をも飲み込もうとしていた。その中で、あの黒曜石の瞳だけが、僕とつながる唯一の証のように輝いていた。そしてその時、彼女は、仄かに笑った。揺らめく炎の中で、確かに笑った。

「りょうちゃん、ありがとう。りょうちゃんのこと、けして忘れない」

それが、靖子と僕が交わした最後の言葉だった。

その刹那、激しい力で突き飛ばされると、僕は不覚にも気を失ってしまった。




 目を覚ましたとき、「今」(神社側)に開いているずい道の前に倒れていた。夜は白み始めていて、頬にあたる朝露の冷たさが心地よかった。「ハッ」として起き上がり辺りを見回したけれど靖子の姿は見当たらなかった。ずい道の中いた。僕と靖子の世界を結んでいた、たった一つの道、たった一つの架け橋は、入り口から数メートルのところで閉じられ、ただの洞穴になってしまっていた。もう二度と、会えない。僕は、得体の知れない底なしの寂しさに襲われ、何度も地面へ頭を打ちつけながら泣いた。その時のことだ。自分の右手が、ポケットの中で何かをしっかり握り締めていることに気付いた。余り強くつかんでいたものだから、しびれて指先の感覚がなくなっている。恐る恐る取り出したそこには、靖子から手渡された日記帳が、まるで彼女の化身のように小さく丸まっていた


                              ―― つづく








by mikoyaryou | 2021-01-09 09:37 | 言の葉つづり | Comments(0)

御古屋窯           面白き事もなき世を面白く……


by 弥延 潤太
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